服を買う。美容室を予約する。ポイントカードを登録する。
それだけではありません。
病院の予約。役所への届け出。子どもの学校からの連絡。
仕事の取引も、お金の振り込みも。
暮らしの手続きの多くが、いまはネットで済ませられます。
そのたびに、名前、住所、生年月日、電話番号、カード番号、パスワードが、画面の向こうのサーバーに預けられていく。
そのサーバーの上で動いている言語は、裏側が分かっているウェブサイトのうち、7割ほどがPHPです。
もとは1995年に、一人のプログラマーが自分のホームページのために公開した、小さな道具でした。
自分の情報を一度もPHPの上に置いたことがない人は、おそらく、ほとんどいません。
10月21日、そのPHPに重大な欠陥が二つあると報じられました。修正パッチの公開は、日本時間の同日23時。
PHPの開発チームが公表した深刻度は、二つとも10点満点で9.2。 いちばん重い「緊急」の区分です。
前回、閉め忘れたドアを、機械が人間とは比べものにならない速さで探し回っていると書きました。
今回は、そのドアの場所が、世界中に一斉に知らされる話です。
欠陥がどこにあるのかは、パッチの公開まで伏せられます。
本当に危ないのは、修正パッチが出たあとです。
パッチ公開前:ゼロデイ
穴の場所を知るのは、ごく一部の人だけ。攻撃する側も手探りです。
パッチ公開後〜適用前:1-Day
① パッチが公開された瞬間、修正前後のコードの差分解析(Diff解析)が始まる
② 「どこに穴があったのか」という答えが、世界中に知れ渡る
③ AIが短時間で攻撃コードを組み上げ、まだ直していないサーバーを一斉に狙う
狙う先の一覧は、とうにできています。かつて数週間あった猶予は、いまは数時間です。
パッチ適用後:修正後の罠
急ぎの修正の隙を突くバイパス攻撃。慌ただしい作業での設定ミス。当てたら終わり、ではありません。
そもそも、パッチが届かない場所もあります。PHPで動くサイトの3割あまりは、すでに修正が配られなくなった古い版のままです。
これは、技術者だけの話ではありません。
破られたサイトから持ち出されうるのは、そこに預けた名前、住所、メールアドレス、パスワード。
支払いの画面を書き換えられれば、そこで入力したカード番号も抜き取られます。国内の通販サイトでも、この手口によるカード情報の流出が繰り返し起きています。
同じ日、国内の大手のクラウドサービスでは、サーバーに不正なプログラムが置かれていたことが発表されました。影響の可能性があるサーバーは、2万6739台です。
原因はまだ調査中で、PHPとの関係も発表されていません。
利用者に求められたのは、サーバーの中に置いていたIDやパスワードを変えることでした。
便利なように置いておいた鍵が、そのまま入口になる。
一人ひとりにできることは、昔から変わっていません。
同じパスワードを使い回さないこと。二要素認証を有効にしておくこと。「パスワードの再設定」や「メンテナンスのお知らせ」を名乗るメールは、リンクを押さずに、公式のアプリやサイトから確かめること。
ただ、今日の出来事も、ひとつの部品にすぎません。
ここ数週間の不正アクセスも、漏洩も、今日のパッチも、ひとつずつ見ればそれぞれの事件です。
けれど点を並べると、線が見えてきます。
世界が大きく変わっていく、その前触れとして。
これも、ひとつの戦争の形だと思っています。
ただ、国と国が向き合うものではありません。
宣戦布告はなく、前線もありません。
兵士の代わりに、プログラムが昼も夜もなく動いています。
狙う先を決めるのは、国籍でも規模でもなく、穴が開いているかどうかです。
町の小さな店の予約ページも、大きな会社の中枢も、同じ一覧に並びます。
そして私は、この攻防が深くなっていく先に、経済の根幹があると思っています。
日本にあるお金は、預金まで含めると、およそ1640兆円あります。
そのうち、紙幣と硬貨の形をしているのは110兆円ほどです。
残りの9割あまりは、金融機関の帳簿に記された数字です。
前回書いたように、お金は1971年に金の裏付けを失い、信用だけで成り立つものになりました。
その信用を支えているのは、帳簿が正しいということです。
そして帳簿を守っているのは、五十年前に生まれた鍵の仕組みです。
帳簿そのものが信じられなくなったとき、お金とは何なのか。
数字を交換し合うことを経済と呼んできたのなら、経済とは何だったのか。
信用でできた仕組みは、信用が揺らげば、仕組みごと揺らぎます。
風の時代は、移り変わりが速い。
ひと月前の常識が、もう通じないことがあります。
一方で冥王星は、248年かけて空を一周し、水瓶座には二十年ほどとどまります。
速く移り変わる表面の下で、土台がゆっくりと、根こそぎ入れ替わっていく。
そうしたとき、結局は同じ問いに戻ってくると思います。
信用とは何か。
お金を支えている信用と、人と人のあいだの信用は、同じ字で書きます。
クレジットカードのクレジットも、もとはラテン語の「信じる」から来た言葉です。
カードを作るときも、ローンを組むときも、私たちの信用は支払いの記録として残され、照会されています。
帳簿の信用は、鍵が破られれば揺らぎます。
しかし、人と人のあいだの信用は、鍵では守られていません。
守った約束の数でも、ついた嘘の少なさでもない。
相手のことを、本当に思っているかどうか。
それは本人の内にしかなく、どこにも記録されません。だから、外からこじ開けることもできません。
攻撃も、詐欺も、それを伝える言葉も、入口はいつも恐怖です。
便乗の詐欺メールは、「今すぐ変えないと危ない」と急がせます。
今回の件を伝える投稿の中にも、確かめようのない数字で、恐怖をあおるものがありました。
恐怖に駆られた人は、確かめる前に押してしまう。
怒りに駆られた人は、確かめる前に広めてしまう。
前回、不安を先に置いて、必要のないものへ手を伸ばさせる商売のことを書きました。仕組みは同じです。
だから、恐怖や怒りに支配されないことは、心がけの話ではなく、いちばん確かな守りになります。
点で見れば、ひとつひとつの出来事は恐ろしく見えます。
線で見れば、それが大きな流れの一部だと分かる。
分かっていれば、慌てずにいられます。
とはいえ、恐れも怒りも、人である以上なくなりはしません。
それも含めて、私たちはこの星で起きていることを、ひとつのショーとして見に来ているのだと思います。
前回、この時代の地球に遊びに来た者として、と書きました。
驚いて、怖がって、怒って、それでも面白がる。
そのすべてが、遊びに来た者の特権です。
どれだけ景色が変わっても、最後に残る問いは同じです。
人とは何か。
帳簿の数字がどれだけ書き換えられても、人は一日に何度かお腹が空き、夜になれば眠くなります。
雨をしのげる屋根があれば、安心して眠れます。
米は田んぼで育ち、魚は海で育ちます。帳簿の中では育ちません。
土に触れ、海に出て、食べるものを生み出す仕事は、どんな仕組みの上でも残る仕事です。
食べて、眠って、隣に誰かがいる。
家族や友人、一緒に何かを作る仲間。
人を本当に支えてきたのは、昔からずっとそこでした。
幸せと呼んできたものも、そこにあります。
前回の最後に、変わらないものがどこかにあることが、人を安心させると書きました。
速さで追いつこうとすれば、機械にはかないません。
けれど、誰と食卓を囲み、誰を信じ、何を大切にして眠るのかは、どれだけ速い機械にも書き換えられません。
帳簿のどこにも、書かれていないからです。
※私たちのサービスやプロダクトは、自社のものも、お預かりしているものも、今回の影響を直接は受けません。偶然ではなく、設計です。それでも、守りに絶対はありません。新しい事実が分かれば、この場で追ってお知らせします。